前に石切り場跡、後ろにはとうとうと水をたたえた貯水池。閑古錐窯山本英樹さんの工房は不思議な景観にたたずむ「藁(わら)の家」。工房でひとつひとつ丹念につくられる山本さんの器は国内外のホテル、レストランの料理人を魅了してやみません。師と仰ぐ故番浦史郎氏の音羽山房での修業は山本さんの人生観、ものづくりに多大な影響をもたらしたようです。山本さんに番浦史郎さんから受け継いだこと、これからの作品づくりについて伺いました。
「実家は大掛かりな陶板などをつくる磁器の窯元(宝寿窯)でした。父は『ひとがつくらないものに挑戦したい』と気骨なところがあり、一畳大の陶板をつくったこともありました。当時、世界最大と言われ、県から表彰されたこともあったようです。宝寿窯は二つ違いの兄が継いでいます。子供のころから兄の存在は大きくて、どこに行くにも一緒でした。というより、兄について回っていたというのが正確ですね」と山本さんは笑って話します。子供時代はお兄様と野山を駆け回り、中学の部活選び、進学先にはお兄様のアドバイスが役に立ったそうです。有田工業高校の窯業科に進んだ山本さんは焼き物づくりの基礎を学びます。
「実は、高校進学にあたり、服飾デザインの道に進もうかと悩んだ時期もありました。服飾を進路に選んでいたら今と全く違う仕事をしていたと思います。いずれにしても、造形に関することを仕事にしたいと思っていたのは、家業と兄の影響でしょう。今は兄のアドバイスは正しかったと感謝しています」。山本さんは、高校卒業後、家業を手伝いながら、陶器づくりを始めます。「磁器づくりの現場をずっと見てきたせいか、ひとつひとつ手づくりの陶器にひかれました。陶器の世界で挑戦したいと思ったのです」。
山本さんが家業を手伝っていた20代のころ、お兄様と何度も見てはため息をついていたのが番浦史郎氏(1941~2001)の作品集でした。「どうしてこんな作品がつくれるのだろう。いつか自分もつくりたい」と思っていた山本さんに大きな転機が訪れます。宝寿窯をひいきにしていた方が番浦史郎氏と引き合わせてくれたのです。ちょうど独立を考え始めたころでした。
番浦史郎氏は当時の工芸界を牽引していた陶芸家で、三重県伊賀の阿山町音羽の広大な敷地に音羽山房という工房をつくり、日々作陶に没頭し、時として訪れる好事家をもてなしていたそうです。琳派の創始者と言われる本阿弥光悦が京都鷹峯につくった光悦村を蘇らせたとも言われています。番浦史郎氏の作品は、陶器に金彩、銀彩、呉須などで文様を描いたものが多く、現代でも高く評価されています。
山本さんは音羽山房で修業を積むことになりました。27歳の出来事でした。
「当時、すでに結婚していて子供も二人いました。家族で音羽山房に移り住み、2年間を過ごしました。あの2年間は今でも夢を見るぐらい濃密な年月でした。音羽山房に存在するものはすべて本物。博物館や美術館でガラス越しに見るようなものが、静かに、そこにあるべきものとして存在していました。師匠の研ぎ澄まされた美意識がいたるところに息づいていました。客人に振る舞う食事も素材を吟味し、出汁にもこだわった懐石料理でした。あの世界観にどっぷりと浸ることができたからこそ、今の自分がいるのだと思います」。山本さんは、師匠の作品集のページをめくりながら語ります。
「音羽山房では焼き物づくりだけでなく、掃除、庭木の手入れ、客人への料理の下ごしらえなどの仕事もありました。師匠は焼き物づくりで教えたり指導することはほとんどありませんでした。焼き物づくりの指導は代々兄弟子の仕事でした。音羽山房では、ろくろを回すのは師匠だけで、弟子がつくるのは粘土を板状にして皿などの造形物をつくる『たたらづくり』です。定番商品とも言うべきものです。今、わたしの作品にたたらづくりが多いのは修業の成果だと思います」と山本さんは音羽山房時代を語ります。
「兄弟子は本当に尊敬できる人たちでした。作品も素晴らしく、かなわないといつも思っていました」。山本家の食器には兄弟子作のものもあり、日々、愛用しているそうです。
師匠が常に話したことは「日々の生活を楽しみ、よいものを見たり聞いたりすることがものづくりに活きる。自然とつくり手の想いや生きる姿勢が作品に表われる」ということと「仕事場は整然と美しい状態にしているように」というふたつのことだったそうです。「器用不器用はあるが、一定レベルまでは誰でも到達できる。重要なのは『何をつくろうか』という発想。発想することができれば、それをかたちにするための技術を考える。そしてつくりたいものが出来上がる」という師匠の教えは今も山本さんの製作の原点となっているようです。美しい仕事場も邪念なく製作に没頭するための必要条件だったのかもしれません。「焼き物以外の仕事も、季節の移ろいを感じ、感性を磨く、自身で試行錯誤する習慣をつけるための学びの時間だったのだと思います」。山本さんは振り返ります。
「『藁の家』づくりに着手したのは武雄に戻ってきてから何年も後のことです。独立してすぐ作品が売れるわけもなく、修行の成果を自身の作品にどう活かすか悩み多き年月でした。石切り場跡と貯水池に囲まれたこの場所にはかつて自分の部屋がありました。いわば原風景のようなものです。工房を建てるのはこの場所以外考えられませんでした。この景観にふさわしく、かつ自然の素材を使って本物にこだわった家を建てたいとたどり着いたのが『藁の家』でした」。
山本さんの工房「藁の家」は、近隣の農家から調達した藁のブロックを積み上げて土で固め、その表面を漆喰で塗り固めたものです。工房に入ると谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を思い起こさせます。
「自分で図面を描き、漆喰の家づくりのワークショップに行ったり、本で勉強したりと大変でした。いったん、建て始めたものの資金が続かず、何年も手付かずのままで結局、完成までに10年かかりました。友人知人の力も借りながら家族でつくった工房は愛着もあり、家族で漆喰を塗ったときのことを今でも思い出します。音羽山房での日々がなかったらこの工房もつくっていなかったでしょう」と、山本さんは工房に差し込む日差しをまぶしそうに見ながら語ります。
「閑古錐窯でよく使う玄釉、ブロンズ釉も完成まで何年もかかりました。独立する前から研究を始め、修行から戻ってからも研究と試作は続きました。師匠の作品には金銀彩などの作品の他、ガラス釉を使った作品もあり、とても参考になりました。師匠の技法を解釈して自分にしかつくれないものをつくりたいと、たどり着いたのが今の玄釉、ブロンズ釉です」。
「最初、ピースウィンズから澄川さんとの共作を提案されたときは無理だと思いました。陶器づくりは自分自身と向き合う仕事でもあるので、他人との共同作業は難しいと思ったからです。さらに言葉で説明するのが苦手ということもあって。。。」と山本さんは苦笑いしながら語ります。「ただ、澄川伸一さんのデザインは気になって、実はいろいろと調べたんです。結果、この人と仕事がしてみたいという興味が大きくなって会うことにしました。会ってみると、感性が響き合う、発想がどんどん広がっていくというのが心地よく、一緒に仕事をしたいと強く思いました」と山本さんは澄川伸一氏との出会いを語ります。
「実際、澄川さんとの仕事は刺激的でした。楽しかった。感覚や価値観が似ていて、多くを語らなくとも目指すべきかたちがみえて造形になる。初めての経験でした。澄川さんからもらった刺激はこれからの作品で表現していきます」。うれしそうに山本さんは語りました。
「幸いなことに、今、海外のホテルやレストランからもオーターメイドの依頼が来るようになりました。それに甘んじることなく、これまでの経験を作品に表現できるようまだまだ努力が必要だと思っています」。力強く語る山本さん。これからの閑古錐窯の作品が楽しみです。
公開日:2022年12月5日
更新日:2024年11月5日
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